デジタル編集者は今日も夜更かし。 -2ページ目

デジタル編集者は今日も夜更かし。

出版社に在籍していながら、仕事はネット、携帯などデジタル企画のプロデュース。

もし雑誌をやっていたら記事にしたかもしれない様々なネタを、ジャンルにこだわらずコラム風に書いてみる。アナログ志向のデジタル編集者は、相も変わらずジタバタと24時間営業中!


真昼のお風呂


今週末、ほぼ2か月ぶりに、のんびりと過ごすことができた。


仕事メールは、土日合わせて10通未満。

胃が痛くなるようなプレッシャーと控えている仕事量は相変わらずで、たまには逃げ出したくなることもある。

どうしても高速のネット環境で確認しなくてはイケナイ時間指定の仕事があって、パソコンの前を離れることができなかったので旅には行けず、ココロだけの逃避行。ホントは上手な気分転換でなんとかしたいところだが、いまは逃げなくてはとても救われないボクのココロのていたらく。逃げ切れるわけはないのだが。 。


土曜日は、昼間から風呂をたてた。風呂場の窓とブラインドを開け、冬の日射しと空気を少しでも、と取り込んで、露天風呂気分。

何度も読んでいる樋口有介の『誰もわたしを愛さない』を持って、長風呂を決め込む。アイロニーに溢れた言葉遊びに終始する会話と、冗談のような人間関係を楽しみながら、カラダの芯まで解きほぐす。


たとえ、それが自宅の風呂であったとしても、昼間の風呂は格別だ。

いつもは、仕事が終わる深夜3時、4時の入浴。先日など、グダグダに疲れきって朝5時過ぎに入り、パンツを脱ぐために片足立ちをしたとたんクラクラと尻もちをついた。湯に浸かったとたんに意識が遠のき、肩は凝っていたけれど、このままでは溺死する…と早々に上がったものだ。


逃避行を試みても、DMやら、プライベートな請求書の山、クリスマスカードに喪中のお知らせなど時候の束を整理したり、部屋を片付けたりとそれなりにやることは山積みで、オトナは、生きるための些事から完全に逃げ切れることはできない。

優先順位は、休養よりも、支払い義務と世間の義理。


そんなこんなで義理を果たしながらも、HDに録りためて見る暇のなかった『のだめカンタービレ』のレッスン#8と#9を続けて見る。ココロが弱虫になっているからか、モーツァルト“オーボエ協奏曲”にココロが浮き立ち、ブラームスの“交響曲第1番”で、客席ののだめとともに号泣してしまった。

絶望から希望へ、そして歓喜の歌へ。

ホントに、ブラボー♪

オトナにしては、至極単純。

なんだか、逃げてちゃイケナイ気分になってきた。


前向きになったところで、いま、この時間から月曜朝イチまでに、と約束をした仕事にようやく取りかかる。

逃避行のツケは、確実に回ってくる。

でも、樋口有介描くところの楽観的な女運とイイ女たちの効用、そして、のだめたちの気の抜けたひた向きさに、来週への活力が復活している。

仕事も、プライベートも、負けるもんか。

みんな、ボクはもう少しがんばるからね。と、性懲りもなく自分に向けて宣言をする。


※写真は記事と無関係です。足はボクの生足だけど。。


illumination_2006


クリスマスに街頭を飾るイルミネーションは、ココロが凛とする透明感のある灯りだ。
一方、クリスマスツリーを始めとする部屋の中の灯りは、ココロがゆったりと暖かくなる。
ともに、一年に一度、ボクの最大の楽しみのひとつ。


冬の冷たい空気の中で眺める街頭イルミネーションが好きで、街に出かけずともいつでも楽しめるようにずっと自宅のライトアップを続けてきた。
華美にならぬよう色を控え、冬の街の景色に似合う飾り付けを、毎年工夫する。
今年は仕事の都合で手がつけられなかったイルミネーションだが、いつもの年より一週間遅れ、今週末をフルに使ってようやく点灯することが出来た。


いつものように脚立に登って作業をしていると、通りがかりの近所のお年寄りから声がかかる。
「今年はどうしたのかなぁ、と思っていたのよ」「毎年、楽しみにしているんですよ」…。
ちょっとプレッシャーなのだが、その度にiPODのヘッドフォンを外して、今年のコンセプトについて説明をする。しばらくその場に立ち止まって、作業を見上げてくれるこの街のオーディエンスたち。


ここ何年かは、シンボルツリーのハナミズキに、丁寧に枝に沿わせるようにLEDのライトを取り付けてきたのだけれど、樹高が4メートルを超え、脚立を使っての作業が危険になってきた。
そこで今年は、発想の転換。2階のベランダまで蔓を伸ばしてきたモッコウバラ を使うことにした。
2階のベランダから地面に向けて、エントランスから玄関に向けて、立体的にLEDの光を散りばめる。


合わせて、道路に面した窓への飾り付け、リビングのツリー、廊下の飾り棚も今年風に。
ギャラリーも多い窓には、今年デビューのハウスライト グレープライト を。
ツリーにはライトを仕込んだボールも組み合わせてみた。仕上げは、ゴールドのリボン。
飾り棚には、小型のハウスライトを置き、庭の枯れ枝を切って立て、リボンライトと白いボールを飾って北欧をイメージした箱庭風に。

夕方5時半にようやくすべての飾り付けを終えて、一斉に点灯。
これだけの作業をすると、かなり大変なんだけど、この一瞬が嬉しい。
ホントにキレイ、だ。


ようやく、今年もクリスマスシーズンが始まった。


Christmas_Tree

↑ゴールドとシルバー、ブルー系のボールを使用。

去年購入したツリースカートでコード類を隠す。


Window_illumination
↑点灯したとたんに、親子連れがじっくり覗いていました。
ぶら下がっているのは、ブドウのライト。

houselight


いつもの年なら、勤労感謝の日近辺の週末に2日がかりでクリスマスの飾り付けをするのだが、今年はまだ手つかず。リビングのツリーすら立てていない。


先週の勤労感謝の日に仕事で大きなイベントがあり、ずっとその準備に追われ、今週末も関連の原稿作成などで朝から晩までずっとパソコンの前に座っていた。
原稿関係が一段落して、いま、今晩中にできあがってくるはずの粗編集映像の仕上がり連絡を待っている。
映像もネット上で確認するので、書斎待機だ。つかの間の休息に、これを書いている。


昔は街も、クリスマスの4週前の週末、アドベント(待降節)までガマンしてから燦めき始めたのに、最近はふと気がつくとすでにあちこちでキラキラ☆
暖冬の今年は、山で紅葉が始まる前から、街は北欧の冬景色だった。

先週のイベント会場、恵比寿ガーデンプレイス恒例のバカラのツリーはイベントリハに駆けつける横目で眺めることになってしまった。毎年意識して見に行く、いくつかのポイントのひとつだったのに…。


このところの忙しさで、ココロが殺伐とし始めたらしい。
さっきもケータイで、制作スタッフに「俺を殺す気か!」と怒鳴ってしまった…。
夜中の2時過ぎに…。
予定より進行が遅れていたからだけど、彼らだって昨日も寝ていないに違いない。ボクだけが忙しいワケじゃない。みんな、いい仕事がしたいから、ギリギリで頑張ってる。すっごく反省中。


と、書いているウチに、12本の映像のウチ、6本が仕上がってきた。想像以上に素敵な仕上がりだ。イッキに嬉しくなる。さっきは怒鳴ったけど、スタッフを誉めてあげたくなる。いいんだ、ボクを待たせても、いいものさえ作ってくれれば。
残りのUPは4時過ぎ予定だって。。やっぱり、クリスマスどころじゃないよね。


いまでも、オトナになっても大好きなクリスマスとは、本気で向き合いたい。
穏やかな、優しい気持ちで、大切な人たちとイルミネーションを眺めたい。
ボクにとっては、正月よりも、誕生日よりも、重要なイベント。クリスチャンじゃないけど。

冷たい風に吹かれながら見るイルミネーションや、暖かい部屋で眺めるツリーは、ほんわかと幸せな気持ちにしてくれる。


12月の仕事のスケジュールを考えると暗澹たる気持ちになるけど、それでも、やっぱりクリスマスが大好きだ。いつもより、少し遅れている暖冬のクリスマス。
今年新たに購入したハウスライトを、さっき初めて箱から出して、点灯してみた。
一瞬、クリスマス。


フー。

さあて、がんばるぞ!っと。

宙ぶらりん


この地球儀は、支柱の上部に付いている電磁石の磁力と本体の重量があるポイントでバランスを保つように設計されていて、本当に宙に浮いている。


エアコンの幽かな風でユラユラ揺れながら回転するし、普通の地球儀のように本来の使い方をしようと国を探すためには指先でそっと触れないと落ちてしまう。
知らないうちにデスクを揺らしたのか、気がつくと上の磁石にピタッとくっついていることもある。

しかし絶妙のバランスが保たれているいつもは、不安定な感じは微塵もない。
そこに浮かんでいるのが当然のように、当たり前のように見える。


この地球儀の宙ぶらりんの姿は、身の回りにあまり存在しない不思議な感覚。
小さな、情報量の少ない地球儀だけど、その不思議な浮遊感に、思わず時を忘れて眺めていることがある。

中途半端な心地よさ。。


余計な刺激さえ与えなければ、こいつはユラユラといつまでも浮いている。
見ていて楽しいし、なにより落ちそうで落ちない危うさが最大の魅力である。


仕事に疲れたとき、ボクはロウソクの揺れる炎を見たり、この地球儀を眺めたりする。
フッと息を吹きかければ、炎は消える。
ツンと突けば、地球儀は落ちる。
そのギリギリで遊びたくなる。
揺れない炎と地球儀。そんなのつまんない。
なので、ボクはエイヤっ!とつついてみる。


落ちたら、また宙ぶらりんの位置に戻せばいいのだ。

そして、またきっと、ツンっとつついてみる。たぶん。


假屋崎省吾


2002年にNHKハイビジョンのドキュメンタリーで、初めて假屋崎省吾 が花を活ける姿を見て以来の、彼の作品のファンである。


それ以前は、あまり作り込んだ花が好きではなかった。
詳しくはないので、イメージだけなのだけれど、
流派でいえば、草月流よりも、池坊。
花器も九谷や伊万里の絢爛さよりも、志野や唐津。
庭でいえば、幾何学的に設計されたフランス庭園よりも、一年草が混在するイングリッシュガーデン。
ロココ調の猫足家具よりも、シンプルな北欧家具。
花は、薄暗い茶室の一輪挿しにコスモスなんかがすっと差してあればいいはないか、と思っていた。


ところが、目黒雅叙園に残る『百段階段』、昭和の竜宮城とも呼ばれる歴史的建造物のなかでも最も絢爛豪華な“漁樵(ぎょしょう)の間”に調和する花を活ける、假屋崎さんの真剣勝負をドキュメンタリーで見てから、それまでとは正反対な美への興味が湧いてきたのだ。


『百段階段』は昭和10年に完成、時代を経て、ちょうど良い感じに古びて一見の価値がある建物だが、螺鈿や金泥も贅沢に色鮮やかな日本画で彩られた天井、彩色された浮き彫りの柱、手の込んだ建具などで贅を尽くした様式で、もうそれだけでボクの趣味ではないのだ。
“漁樵の間”はそのなかでも全面浮き彫りを施された床柱などひとつ間違えれば悪趣味にもなりかねない和の豪華さで、微妙なバランスで美を主張している。
そこに飾る花とは?
既に完璧にできあがった空間に、さらに重ねて花を活ける。
百段階段に繋がる6部屋を舞台に、今年も、假屋崎さんの作品が飾られる。
目黒雅叙園『華道家 假屋崎省吾の世界』。 テーマは、“華で寿(ことほ)ぐ”。


繊細というよりも大胆。可憐というよりは豪華。

めちゃめちゃリュクスな世界。
自然を借りてきて部屋に野山への窓を作るのではなく、
花や植物を狩り取ってきて閉じられた人工的な空間に、新たに自分の美を創り上げていく。
ものすごくアグレッシブである。
ずっと見たかった“百段階段VS.假屋崎省吾”のバトルは、期待に違わず楽しかった。
ふと、假屋崎さんの作品がない百段階段の各部屋をイメージしてみる。
きっと、まったく異なる印象になるんだろう。
床の間や飾り棚だけではなく、部屋そのものの空間に影響を与える生け花の世界。
なんだか、スゴイ。
あまり考えたことはなかったのだけれど、自宅のインテリアとして花を飾ることを想像してみる。
なんだか、いいかも。

やはり野におけ、すみれ草…とは基本的には思うけれど、才能によって開花する華もある。
基礎的な技術と知識を学ぶために、教室に通うことを、いま結構真剣に考えている。


■目黒雅叙園『華道家 假屋崎省吾の世界』(11/12 SUN.まで)
http://www.megurogajoen.co.jp/event/061028.html
*観光バスで押し寄せるおばちゃんたちの歓声がスゴイので、その波をやり過ごす時間とココロの余裕がある時にぜひ。

しかし、假屋崎さんの作品と、おばちゃんパワーはよく似合う…。


風邪ひいた


どれだけ忙しくても、どれだけ疲れていても、カラダが元気ならなんとか乗り切れる。
そして、とっても幸せなことにボクはかなりの健康体なのだが、
だけれどその分、どうやらちょっとしたカラダの変調に滅法弱い。
ちょっと熱が出ても、グダグダの有り様。


デスクワーク、もしくは仕事がなければいつもは完全休養にあてる土曜日の午後に、ちょっと新宿のデパートに出かけてしまった。毎日都心で仕事をしているクセに、週末の混雑は質が違う。その雑多な人混みに酔ってしまったらしい。クタクタになって帰ってきたら、どうにも喉が痛い。
あれ? やば!
たぶん2年ぶりの、風邪の予感。
なぁんにもする気が起こらない。かといって、ボクは貧乏性なので寝るのが嫌い。寝るのが勿体ないのだ。で、パソコンに向かうのだが、喉が腫れて熱っぽい。

書斎のデスクに座ったまま、ボーッとなる。そのまま、30分ほど居眠りしちゃったり…。


週末の原稿ははかどらず、風邪を治すこともできないままの月曜日。
結局、一日中ボーッとしたままで仕事が進まず、早めに切り上げて帰ってきてしまった。

で、風邪ひいたとはいえ、熱をはかってみると37.2度。ある意味、微熱である。
でも、顔は赤みを帯びて、目は充血。
なによりしんどい。やる気も半減。変調に弱いボクには、平熱+0.4度でも重大事なのである。山積みの課題を前にこれはまずい。
あまりのだらしなさに、仕事中、スタッフからホイミの呪文と、八宝茶をもらった。
帰りにうがい薬も買って、ちゃんと風邪薬も飲んで、今日は早く寝なくては。
ブログを書いて遊んでいる場合じゃあない。


ということで、今日は、もう寝ます。
この時間に寝るのは、もしかしたら今年初。快挙です。
オヤスミなさい。
皆さま、季節の変わり目、風邪など召しませぬように。


花炎


先週、ちょっと仕事を抜け出して外苑前で開催中の『陶匠:辻清明 華道家:假屋崎省吾展“花炎”』 (10/22まで。青山・梅窓院 祖師堂ホール)で息抜きを。秋だし。
28日から始まる目黒雅叙園の百段階段に飾られる『華道家 假屋崎省吾の世界』 を楽しみにしているのだが、そのアンティパストのつもり。


どちらかといえば、信楽の器を中心とした辻清明氏の作品がメインで、假屋崎氏がその器を盛り立て、過剰にならない程度に花を生ける。
独創的な花器は、もちろん假屋崎氏の花で飾られて、シナジーの効果を存分に発揮する。
本来、茶を点てたり、料理を盛るための器に、花はない。
壁面や陳列台を秋らしく、稲穂や赤い実(スズバラだと思うけど自信なし…)を中心に空間が創られていて、そこに信楽の無釉・焼締の作品が並ぶ。
ホントは花を見に行ったので、もちろんボクの興味は花器に向いていたのだが、空間の妙もあり次第に他の作品にかける時間が増していく。


『今宵ひと皿』 (フジテレビ/毎水曜/22:48-22:54)というミニ番組がある。
これは、毎回、ひとりの料理人にひとつの器が提供され、その料理人のイマジネーションでその器に最も合う料理を作り盛りつけるという、もの凄くクリエイティブで、類い希なオススメ番組である。空っぽの器に料理が盛られ、その器に命が吹き込まれる瞬間を目撃することができるのだ。
おお!そうきたか…と、一流の料理人の発想の豊かさにひれ伏し、ボクにはゼッタイ料理の才能はないなぁ、と思い知る。


ところが、そんなボクも会場で実際に辻清明氏の器を見ていると、空っぽの茶器や皿が、満たされているような錯覚に陥ってくるのだ。
もちろん、それが辻清明氏の作品の力なのだろうけれど、秋の空間を会場に創りだした假屋崎氏の花の力も大きいのではないだろうか。
酒を飲まないボクだけど、徳利と猪口が並んでいるのを見て、ホントに日本酒が飲みたくなった。陶芸趣味はまったくと言っていいほどないのだが、なんだか、こんな風にココロに響くと嬉しくなる。


存分に気分転換をして会場を出ると、青山の裏通りに鈴なりの柿の木が一本。

街だって、秋だ。
マナーモードにしていたケータイに入っていた急ぎの留守電に応えるために電話をかけながらも、気分良く、のんびりと会社へ戻った。


caramel


久しぶりに、山田詠美を読んだ。
彼女の文章は、上質で繊細で、魅力的な描写に溢れている。自然への造詣も深く、そして意外なことに、日本的な世界を描くのが本当にうまい。
読まない人にとったら、もしかしたら20年前のデビュー作『ベッド・タイム・アイズ』や直木賞受賞作の『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』のイメージがいまだに強いかも知れない。もしくは、人気エッセイの『熱血ぽんちゃん』か。
が、ボクは初期の『蝶々の纏足・風葬の教室』 で彼女の文章に惚れ込み、『ぼくは勉強ができない』 で、彼女の描く男のコに憧れた。
そして現在の山田詠美は、堂々、芥川賞の選考委員なのである。


この『風味絶佳』は、デビュー20周年の区切りとして書かれた渾身の恋愛短編集だ。

彼女が小説に登場させる人々は輪郭が明確で、読む者はたやすく彼ら、彼女らの姿をイメージすることができる。
また、たとえば季節をイベントからではなく観察による視覚と肌の感覚で描写するので、深い記憶とシンクロしながら気温や音や湿度を感じることができる。
しかし山田詠美が描く恋愛は、登場人物たち個々のプリミティブな欲望に根ざしているので、シンプルではあるが、一見、万人の同調を得ることが難しそうに思える。
幸せとは何か、愛とは、あるいはその愛が成就するとはどういうことなのか。その判断は、誰がすべきなのか。ある意味で、この小説にはその答えがあり、迷いはない。


最近、林真理子三昧だったので、少し比較をしてみる。
同じように恋愛を描いていても、林真理子の恋愛は、いつも観客を意識している。登場人物たちは、常に、他者と自らを比較し、幸せの基準は相対的である。
恋愛が社会性に満ちていて、ワガママに振る舞っているように見えても、社会的規範や時代の潮流に沿っていることがわかる。
根源的な欲望としての恋愛に違いはないけれど、両者には根本的な相違があるように思えてならない。

だからこそ、林真理子の小説はエンターテインメントとして、ボクにはとても面白い。ココロにも響くし、モチベーションに繋がったり、逆に落ち込んだりと、毎日の生活に対する影響力も絶大だ。

一方、山田詠美の描く恋愛小説は、ボディーブローのようにジワジワと効いてくる。
クリスマスのようなラブ・イベントも、結婚届も離婚届も、恋愛当事者の根源的な欲望には影響しようがないのだと思い知らされる。
クリスマスが近づくとあたふたするボクのように、社会的な生物である我々にとってはじつは理解し難いのだけれど、同時に、羨ましい率直さである。


短編集は、装飾や虚飾を取り払った“男と女”の6編の物語だ。
たとえば、『アトリエ』という話のなかに、「だらしない幸せは、憂鬱を流してしまう作用があると思うのです。」という一文がある。

“だらしのない幸せ”…。何という素敵な表現なんだろう。

そこには、“男と女”以外、誰も邪魔者は介入していない。憧れるけど、そんな境地に辿り着くには、ココロも人生もデコラティブ過ぎる。
彼女からすれば、ボクなんて、まだまだ尻が青いんだろうな。


もちろん、素直に読めば、素敵な素敵な恋愛小説集。
山田詠美自身によるあとがきのエピソードまで、格好いい。
彼女は、本当に人間の輪郭をスケッチするのがうまい。


※タイトルの『風味絶佳(ぜっか)』は、本作収録の、甘いキャラメルがモチーフとなる格好いい短編の表題から。懐かしい“森永ミルクキャラメル”のパッケージに印刷されている「風味絶佳、滋養豊富」による。撮影用に久々に購入して食べてみたけど、やっぱり甘い。隣に並んでいた、“黒糖キャラメル”と“あずきキャラメル”をついでに買ってみた。“あずき”美味しい!



■風味絶佳/山田詠美■


gamelan_ball


いま幸せか、と問われたら、ボクはホンの少しだけ考えて、幸せだ! と断言するだろう。
どうだ、参ったか。


幸せに定義はないと思うので、自分が幸せだと思っていれば、それでいいのかも知れない。
人それぞれだろう。
ボクがいま幸せだと思う理由は、ただ、ボクの周りにいる人たちすべてを信じることができるからだ。
信じられる人たちだけと仕事をし、遊び、生活ができる。ひとかけらも疑うことなく、毎日を過ごすことができる。これが、ボクの幸せ。


でもボクは、欲望が人一倍強いと自覚しているし、
現状を100%肯定しているわけでも、境遇を無批判に受け入れているわけでもない。
だからいまが十分に幸せだとしても、それで満足しているわけではない。
さらなる高見を目指して、ボクはいまでも貪欲なのである。
そのためオトナのクセに、達観も、諦観も、悟りも無縁のジタバタぶりで、最近のブログ記事はちょっと情緒的すぎないか?などと指摘されたりするていたらく。仰るとおり。
だからまるで20代の女のコのように、幸せグッズに関して敏感だったりする。


持っていると“幸せになれる”と最近とくに人気のガムランボールをバリのお土産にもらった。インドネシアのガムラン音楽の高音のドラのような音がでる鈴で、ケータイにぶら下げている。
Gパンのポケットに突っ込んでいるので、歩くとガムランの音がかすかに深く響く。
もともと、日本の鈴もお守りに使われていて、御利益があるとされる。鈴を振って、よくなればなるほど、よくなる…。つまり、良く鳴れば、良く成る、という洒落らしい。


持っているだけで幸せになれる保証はないけれど、でも、素敵な音なので、コロコロ音色が心地よい。

ガムランボールに人生は託せないにしても、誰しも幸せになりたいし、いまの幸せを続けたい。ヒーリング効果もあるし、流行るのもわかるな。
そしてボクはガムランボールに、いま以上の幸せ、ゼッタイ内緒、誰にも言えない願いを込めるのだ。やっぱり、ジタバタ。

juice


バーチャルな瓶に手紙を入れてネットの海に流すと、いつかどこかのネットに繋がっている誰かに届く。
どこかの誰かが流した手紙が、偶然に自分のPCに流れ着く。


そんなロマンチックなボトルメールのサービスは、
インターネットが普及し始めたいまから10年近く前、日本のネット人口がようやく500万人を越えた時代に始まった。
リクルート社が始めたボトルメールはビジネス的に成り立たなくなって、2002年にいったんサービスを終了したが、いままた、ブログパーツとして復活を果たした。


ボクは、寂しがり屋の独り好き。
みんなとワイワイしてるのは大好きだけど、独りでいる時間もゼッタイに必要なのだ。
ところがとってもワガママなことに、せっかく手に入れた独りの時間も、常に誰かと繋がっていないと寂しくなってしまう。だから、ケータイやメールやメッセンジャーにかなり依存しているし、mixiの足跡がスゴク気になる。
そして独りでいるときに、イチバン考えているのは自分のことではなく、誰か、のこと。
ポケベルさえなかった時代から生きているのに。
そういえば、ポケベル時代は、電波の届かない地下鉄がとても不安だったなぁ。できるだけ地下街を歩かずに、速やかに地上に出た。ポケベルには留守電機能なんてなかったから、メッセージが送信された瞬間に地下にいたら、受信するチャンスを逃してしまうのだ。


仕事はいつもチームで行うし、プロジェクト毎に数人から十数人の人たちが集まる。メールも毎日数十通をやりとりしている。会議や打ち合わせやディレクションが続いて、数時間喋りっぱなしのこともある。それに、ほとんど毎日、初めての人と出会う。
だから、時には独りになりたいのだろうけれど、だから、やっぱりひとりぼっちが寂しい。
誰かと、繋がっていたい。


じつはブログも、ボクにとってはどこかの誰かと繋がるための重要なアイテムなのだけれど、ボトルメールがブログツールになったので、当然、組み込んだ。
ボクが流したメールは誰が拾ってくれるんだろう。繋がれるかな。緩~い繋がり感に期待大♪


写真は、オーストラリアの飲料メーカー製の『CLASSIC JUICE TROPICAL』
バリ島を経て、赤道を越え、お土産としてボクの手元に届いた。
中身はもちろん手紙ではなくて、リンゴ、パイナップル、マンゴー、パッションフルーツの100%のミックスジュース。
日曜日の朝、イッキのみ。乾いた喉が心地よく潤う。
独りで部屋にいるけれど、ココロは贈り主に繋がる。
重たいのに、お土産ありがとう(^^
キレイなボトルは、部屋の本棚に飾っておこう。
贈り主宛の手紙でも入れてみようかな。。。