ひまわり。 | デジタル編集者は今日も夜更かし。

デジタル編集者は今日も夜更かし。

出版社に在籍していながら、仕事はネット、携帯などデジタル企画のプロデュース。

もし雑誌をやっていたら記事にしたかもしれない様々なネタを、ジャンルにこだわらずコラム風に書いてみる。アナログ志向のデジタル編集者は、相も変わらずジタバタと24時間営業中!


himawari


忘れるための努力をしなくても、「感情の記憶」は時とともに薄れていくものだということを思い知る。


悲しかった。
腹が立った。
楽しかった。
嬉しかった。
愛していた。


一時期、コントロールができなくなるほどにボクのココロを支配していたはずの感情。
それが時とともに過去形で表現されるようになり、そして、
確かにあのとき、ボクは怒っていた、とか、
本当に心から、あの人を愛していた、
というように制御可能な“事実”となって、記憶の引き出しにしまい込むことができるようになっている。「感情」は「事実の記憶」へと変化していく。
多くの場合、それは救いなのだけれど、時として、後ろめたさにも繋がる。



愛犬ソピアを一年前に亡くした。
1993年2月11日生まれ。ラブラドール・レトリーバー(Yellow)。
女のコ。水瓶座。血液型不明。享年14歳。


大型犬としては長生きで、長患いはしなかった。急にカラダが弱くなって、猛暑が予測された昨年の夏をどう過ごさせてあげようかな、と考えはじめてすぐの事だった。
老齢期に入って2階の寝室に昇るのがしんどくなって、リビングの一画に自分で寝所を確保していたのだが、最期には一日のほとんどをそこで過ごすようになっていた。ダイエットを心がけていた太めのカラダが少しずつ痩せて、食欲もだんだんと落ちていった。時々起こす痙攣の発作も、心臓と全身の筋肉に少しずつダメージを与えていたらしい。


小犬の頃は噛み癖のある悪戯者で、家のなかをメチャクチャにした。何冊もしつけの本を買ったり、警察犬の学校に預けて訓練をしたり、とても苦労をさせられたのだけれど、頭のいい、なにより抜群に美人でスタイルのいいラブラドールだった。


ボクは、よくソピアと話をした。
散歩の最中はデートをするように普通に話しかけ、もちろん答えはないけれど、ソピアの顔を見るとちゃんとボクを見ていて、それで?と話の先を促す。この14年間にボクの周囲で起こった辛いことやしんどかったことを、たぶん彼女がイチバンよく知っていた。彼女にしか話をしていないボクの本音がたくさんある。


ソファで寛いでいるときは、ボクの膝の上にアゴを乗せてジッと顔を見ている。疲れると、足の甲を枕代わりにクークーと寝ていた。
食事の最中は、ずっと隣にお座りをしていた。やはりボクの太腿にアゴを乗せ、もしかしたらもらえるかもしれないお裾分けをじっと待つ。決して催促はしないけれど、時々がまんが出来なくなって、そのままの姿勢でよだれを垂らす。
いまでも太腿に乗せられたソピアのアゴの感触がよみがえる。


キスをしてベロベロと舐められて、グシャグシャに濡れた頬と唾液のにおい。そんなとき、どさくさに紛れて唇を甘噛みするいたずらな癖。
フローリングの床の上でプロレスをして、踏んづけられたときの肉球の感触。
大型犬だから太いけれど、それでも女のコらしい吠え声。
オシッコやうんこのにおい。いつも健康的なうんこをたくさんした。それを片づけるときのずっしりとした重さ。
アゴの下のタプタプした皮と暖かな体温。
遊んでいてひっくり返すと、以前に手術をした跡がかすかに残る白いおなかとおへそと並んだ乳首があった。



2007年7月25日。
仕事に出かけるとき、リビングに寝ているソピアに行ってくるよ、と声をかけた。
それまで寝ていたソピアは、グイッと首を持ち上げて、ボクの方をじっと見た。
ボクは少しの間、ソピアを見て、もう一度、それじゃあね、行ってくるよと言った。
ソピアは目をそらさず、ずっとそのままの姿勢だった。


夕方、携帯にメールが入った。
「ソピアが逝きました。」


誰もいない会社の屋上に上がって、10分間だけ、声をあげて泣いた。


その後、どんな風に仕事をしたのか、まったく覚えていないけれど、帰りにひまわりの花をたくさん買った。
ソピアには、晩年ずっとしていたオレンジ色の布製の首輪がとても似合っていた。
最期まで艶のあったベージュの体毛とオレンジ色の首輪に、柔らかな黄色のひまわりの花がゼッタイ似合うと思ったのだ。


永遠の眠りについたソピアは、とてもキレイだった。
枕元にひまわりの花を供えると、思った通り、とても似合っていた。



ソピアが亡くなっても、その存在はずっと近くにいた。確かに、そこにいた。
とくに食事の時に隣にいないのが辛くて寂しくて、たとえ外食の時でも、ふと左側に目がいってしまう。14年間いつも近くにいて、日常の生活すべてにソピアの思い出がある。アゴの重さや、においや、声、指先に残る感触は、繰り返す日常のあらゆるシーンにリンクしている。


それでも、あれから一年が経ち、いつの間にかソピアは天国に着いたような気がする。
思い出は忘れないけれど、気がつくとボクの周りからソピアの気配が消えていた。
ずっと、ソピアの事を書きたかった。ソピアとの思い出を書かなければ、このブログを再開できないと思っていた。
ソピアを思い出として書けるようになるまでの一年という時間が長かったのかどうかは分からない。ただ、今日、ボクは書けると思った。


花屋の店先でひまわりを見て、ボクはソピアを思い出す。
でももう、辛くはない。
かわいくて、柔らかくて、暖かくて、優しくて、賢くて、心から大好きだったソピア。
たくさんの思い出がある。いまは、それを懐かしく思い出す。
この文を書きながら、少しだけ、涙が流れた。
もしかしたら、ソピアのことで流す最後の涙かもしれない。


一周忌には、ひまわりを供えよう。
ソピアには、黄色いひまわりがよく似合う。